なんだか長ったらしいタイトルになってしまったけど、簡潔に表現するとこういう感じになる。
今から5年ほど前、自分はWebデザイナーとして職探しをしていたのだけど、多分探し方が悪かったということもあるのだろうけど、職は見つけられなかった。こう言うと「そんなことはないでしょ」と言われるのだけど、本当になかった。当時はまだネットづてに人脈を辿って仕事に行き着く、という方法も自分の中で分かっていなかったので、毎日泥臭く「市名 デザイナー 求人」とかで探していた。めぼしき個人のデザイン事務所と思われるところにアポを取ってみるも消息不明で連絡が来なかったり、街中で見つけたおしゃれな看板を調べて事務所がないか探したりしていた。母に「別に無理に職に就かなくても自分で起業してもいいんじゃない?」と言われていたのだけど、元々社会性のない、逃げてばかりの生活を送ってきたこともあって、なんだかそっちの道を選んだら逃げのような気がして、「地元で仕事がないなら京都に行って働くしかない」という固定概念に囚われていた。
保育園の頃から集団行動が苦手で、学校もろくに行ってなくて、高校は中退して、高卒認定試験は残すところ1科目のみというなんとも言えない中途半端な人間だった。働くぞ!という意気込みとは裏腹に人前に出ると驚くほど喋れず、コミュニケーション能力を上げようと受けたスーパー、飲食店や雑貨店のバイトはことごとく落ちる。「元気ある?」「はい」この一言だけで落とされるし、普通に喋ろうとすると手汗が噴き出る。散歩をしていて正面に人がいると回れ右をして変な道をくねくね通ってしまいなかなか家に帰れなくなる。近所の商店で自分の前に人がいるとレジが出来なくて30分ほど店に滞在し家族から電話がかかってくる。一番酷い時はこういった症状はザラにあった。これは最近知った病名だけど、会食恐怖症というものもずっとあった。
母は多分そういった自分を見て「自分で起業したらいいんじゃない?」と言ってくれたのだと思う。しかしその時の自分は半分意固地になっていて、「なんとしても職に就いて、今までの生活とオサラバして一発逆転をしたい」という謎の気概があった。毎日ウォーキングを続け、自転車で対面接のためにハロワのセミナーに通い、何十社と転職したという謎のおじさんの話を熱心に聞き、今までまともに電車も乗ったことがなかったけどアイドルの映画を見るという名目で京都まで行き、コンプレックスだった歯を全部治し、高卒認定の勉強をして、人と喋る必要のない短期バイトをして…と自分なりに考えた自信がつくための方法は全てやった。全部京都で働くまでの段取りのつもりだった。
そんな意気込みのまま突っ込んでいった京都での1回目のバイト面接は落ちて、それは単純にマナーとかそういう点に目が行きすぎて資料をちゃんと作れていなかったのと、全体的な準備不足のせいだった。ちゃんとした自分のプレゼンが出来なかったせい。気合いが空滑りしたせいで結構落ち込んだけど、まだ1回目だから大丈夫、という謎の余裕があった。それからもいくつか京都のバイトを探し、だいぶ迷っていたけど知り合いに背中を押してもらって、1回目以降に用意周到な準備をして面接に臨んだ。結果は受かった。
それから1年間、自分にとってはすごく貴重な体験をさせていただいたけど、同時に落ち込むこともたくさんあったし、プラスもマイナスも全部吸収した。たったの1年とは思えないくらい濃厚な日々だった。人と話すこと、そもそも集団の中にいることが苦手だったけど会社には面白い人がたくさんいたので苦痛ではなかったし、迷惑はたくさんかけてしまったのだけれど、結果的には意を決して良かったと思った。あの時大げさなほど悩んでいたことは今から振り返ったら誰でもあることで、通過点の一つだったのだと思う。変に悩みすぎて自分のことしか見えてなかった。自分のことを考えすぎてがんじがらめになっていた。
5年前、「地元ではなく京都で働く」と意気込んでいた自分は、今は地元でデザイナーとして働いている。それも家で。5年前の自分が見たら色んな意味で驚くと思う。京都で働いたことも、今こうして家でブログを書いていることも、全部自分が選んだことなので何一つ後悔はしていない。最初から諦めて今の選択をしたのではなく、一度外に出て、また戻ってきたから、自分なりには精一杯行動した結果だと思っている。京都で経験した一年は、何物にも代えがたい経験になって、自分の中に蓄積されている。他の人に比べれば、たった一年、されど一年かもしれないけど、それだけは自分の中で否定のしようがない事実になっている。
特に今日は何の節目でもないのだけれど、書きたくなったので書いてみました。次の5年後は、また今とは違う自分になっているのかもしれないなぁ。